「陰徳」とは?陽徳との違い・陰徳を実践する方法は?

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「陰徳」という言葉を聞いて、どのようなことを思い浮かべるでしょうか?

デジタル化によって、これまで見えなかったものがどんどんと可視化されてゆく今、「陰徳なんて歴史とか寺社巡りが好きな人に関係ある話でしょ?自分には関係ない」と思う方も多いかもしれません。たしかに「陰徳」という言葉は、ことわざや故事成語に多く見られ、どうしても古めかしく、融通の利かない教えのように感じてしまいがちです。
「心の健康」や「精神的幸福」の大切さに関心が集まる中、「陰徳」は本当に時代遅れの考えなのでしょうか。

目次▼▽▼

陰徳の意味とは

陰徳の「陰」の字は「人に知れないもの」「内にこもって目立たないこと」を表し、一方の「徳」は「立派な行い」「すぐれた人格」の意味を持ちます。つまり「陰徳」とは「人知れず行われる立派な行い」や「外からの評判や見返りを求めずに行う善行」、または「そうした行いを通じて高められる人格」を意味する言葉といえます。
なぜ、あえて他人に知られないようによいことを実行するのでしょうか。ベースには、そうすることにより、ふだんの善行や親切な行動の価値がさらにアップするとの考えがあります。自分の利益や名声を求めずによいことを行うところに陰徳の本質があるといえるでしょう。

陰徳と陽徳の違いとは?

陰気があれば陽気があり、陰性があれば陽性もあるというように、日本語には陰と陽を対にした言葉が多数あります。そこには、世の中のすべての存在や現象は「陰」と「陽」の組み合わせで成り立っているとする、古代中国の陰陽論の影響があるとされます。
陰徳もその一つで、「陽徳」という語との組み合わせで成り立っています。陽徳とは、陰徳の対義語として「おおっぴらに人に知られる善行」を意味するものです。
人知れず行うことに陰徳の価値があるとはいえ、他人への親切な行動が、第三者に目撃されたかどうか、誰にも気づかれることなくやれたかどうかということに固執しすぎると、陰徳の本質を見失いかねません。重要なのは、なんのために善行をするのかという「動機」にあります。
例えば、職場のみんなが使う共用部分を自主的に掃除するという場合、その動機が「気が利くと上司に評価されたい」「貢献した見返りに、他の役割を減らしてもらいたい」など、他者からの報酬や見返りにあるとしたら、どうでしょうか。
期待する見返りを得るには、自分が行った成果であると相手に気づいてもらう必要があります。そのため、あえて人目につく時間帯に掃除をしたり、自分がやったという痕跡を残したりするなど「目立つ方法」を選ぶでしょう。
一方、その動機が「一緒に働くみんなが気持ちよく仕事ができる環境を整えたい」「いつも助けてもらっているから、何か一つでもお返ししたい」というものだとしたら、どうでしょうか。この場合、自分の心の内からわき起こる前向きな気持ちや感情が、掃除という善行の源となっています。そもそも他人からの報酬や見返りを求めていませんから、人目につく方法にこだわる理由もなければ、誰かに気づいてもらう必要もないのです。
このように陰徳と陽徳の最も大きな違いは、善行をする際の「動機」にあります。
動機の違いによって、「おおっぴらに人に知られる」ような方法や形をとるのかどうかが、おのずと決まってくるともいえるでしょう。

なぜ、陰徳を行う必要があるのか

心の内からわき起こる動機にもとづく「陰徳」は、報酬や評価では得られない深い喜びや充実感をもたらします。また、自分の利益や名声を目的とせず、人や社会のためにすすんで行動する姿勢は、周囲にポジティブな影響を与えます。具体的に見ていきましょう。

内面の充実と成長が得られる

人生100年時代を迎え、「生きがい」「働きがい」の意味が問われる今、モノやお金の多さよりも、心の豊かさを大切にしたいという人が増えています。その一方、どうすれば自分の心は豊かになるのか、自分の内面の磨き方が分からずにいる人が少なくありません。
作法家の三枝理枝子さんは著書『人間力のある人はなぜ陰徳を積むのか』の中で、次のように述べています。
「陰徳を行うとは、わかりやすく言えば『自分を慎む』ことです。『慎』という字は、『心』を表すりっしんべんに『真』の字が組み合わさってできています。自宅謹慎などという熟語のイメージから、慎むとは、悪い行いの罰として行動を控えることだと誤解している方があるかもしれません。本当の『慎む』とは、静かに内面を掘り下げて本当の自分を知ること、気づいていなかった『新しい自分』に出会うことだと私は解釈しています」(三枝理枝子『人間力のある人はなぜ陰徳を積むのか』モラロジー道徳教育財団)
人から何かをしてもらうことや見返りを得ることを期待せず、ただ自分の心と静かに向き合い、内なる声の求めに応じて善なる行動をする。そんな「陰徳」の行いは精神を豊かにし、真に自分らしい生き方に向けて、心を磨き上げていくことにつながるでしょう。

ポジティブな循環を生み出す

陰徳は、代償を求めない無償の善意にもとづいているため、かかわる人たちに安心と共感を与えます。それだけでなく、自分が苦労をして得た結果を、人や社会のために与えようとする考え方、その生き方は、「誰かのために生きる」ことの尊さを無言のうちに周囲に気づかせ、同じような心、同じような行動を引き出すでしょう。陰徳を行う人を起点にして、人から人へと少しずつポジティブな循環が回り始め、ひいては社会に調和や連帯感を育むことにつながるのです。

陰徳を実践する方法

では日常の暮らしや仕事のなかで陰徳を実践するにはどのような方法があるのか、5つの方法をご紹介します。

知人へ思いやりのメッセージを送る

善行と聞くと、何か特別で難しいことをやらなければならないと構えがちですが、最初からハードルを上げてしまうと長続きしません。大切なのは「動機」です。動機が純粋であれば、行う内容、方法は、誰にでもできる平凡で小さなことでよいのです。例えば、困難の中にある知人や友人に心を寄せ、勇気づけるメッセージや励ましの言葉を送る。そのような小さな行動も心を込めて行えば十分、陰徳になりえます。
見返りを期待すると、その打算的な心の内がメッセージやその行間に表れるもの。相手の笑顔、喜ぶ表情を想像しながら、言葉の一つひとつに心を込めることがポイントです。

地域の困りごとにボランティアで貢献する

どのような家庭、どのような職場にも、トイレのようにみんなが使う共用部分があります。そうした誰の責任でもない、みんなの場所は一人ひとりの責任意識が薄くなり、汚れたり、荒れたりしがちです。とりわけ道路やゴミ捨て場といった公共空間の多い地域社会は、誰にもケアされないまま、いつの間にか問題になっていることも少なくありません。
地域の困りごとに気づいたら、自分にできる、小さなことでいいのでボランティアをしてみましょう。誰から褒められることもなく、ボランティアをし続けることに戸惑いを感じたり、葛藤を抱いたりするかもしれません。そのようなときは「なぜ、やるのか」という動機を自分の心の中に探す時間をもちましょう。
前述の三枝理枝子さんは、「陰徳」の文化が日本に色濃く残っている表れとして野球を例に挙げ、「全員が犠牲バントを打てる強さ」こそ、海外にはない日本チームの特徴ではないかと述べています。「日本人は、犠牲になるのは弱いからではなく、強いからこそ犠牲になれることを知っています。(中略)自己犠牲とは『たとえ自分に余裕がないときでも、自分に何かできないかを考えて動くこと』とお伝えしています」(前掲書)
自分のできること、役立てることは何か。常にそう考え続ける習慣が、陰徳につながります。

誰かのために時間を使う

この1週間を振り返って、誰かのために時間を使った記憶はどれくらいあるでしょうか。
特別なことでなくてかまいません。例えば、相手の名前を覚える。相手の好きなもの、興味あるものが何かを記憶しておく。もしあなたが、数日前に初めて会った人と偶然再会した際、親しみをもって自分の名前を呼ばれたら、どのような気持ちになるでしょうか。人は誰しも、自分を認められたいという欲求をもっているもの。つまり、相手の名前を覚える努力は、相手を認め、尊重すること、喜ばせることにもつながるのです。そこに必要なのは記憶力というより、相手を陰で「思いやる力」ともいえます。
慕われる人の共通点は、誰かのために自然体で自分の時間を使えること。次にまた会うまでに、陰で相手をどれだけ思いやれるか。陰徳の差が、人望の差にもなります。
1日の中に意識して、相手を「思う時間」をつくってみませんか。

人々の健康や幸せを願う

自分以外の「誰か」といった場合、まず思い浮かべるのは家族や友人、職場の同僚、仲のいい知人などでしょう。そういった直接的な縁のある人を思いやったり、助けたりすることだけでなく、まだ出会っていないその他の人々にも思いを向けてみましょう。
例えば、突然の地震や災害で平穏な日常を失い、困難を抱えている方がいます。その土地に家族や知り合いがいなかったとしても、被災した人々の苦難を少しでも分かち合いたいと願う、その健康を祈る、心を寄せる……。寄付をしたり、ボランティア活動をしたりするなど「形の見える」支援行動も大切ですが、誰も同じようにできるわけとは限りません。
善行とは「目に見えやすい形ある行動」を指すのだと限定的に考えると、かえってできることが少なくなります。「ただ人の幸せを願うだけなんて、そんなものは善行じゃない」と決めつけている人にとって、人の幸せ願う時間は無意味なものに感じられるでしょう。
一方、陰徳のポイントは「動機」にあると理解し、利他的な動機から「どうか相手に幸せになってもらいたい」「健康でいてほしい」という心を込めて願うならば、それは陰徳を行ったことになる。そう捉えれば、日常のあらゆること、あらゆる時間が「陰徳を行う」機会になりえます。そもそも他人に知られることを期待せずに行うから陰徳なのであって、実行の形が見えないものは善行ではないと決めつけてしまったら、何も陰徳になりません。
大切なのは、動機です。自分の心を働かせるイメージで、陰ながら人々の健康を願う、幸せを祈る習慣を、日常の中に取り入れてみましょう。

日々の感謝を忘れない

「こんなにしてあげたのに、感謝の言葉ひとつもらえないなんて」。そんな思いをした経験はないでしょうか。人は誰しも「誰かに必要とされたい」「認められたい」という欲求をもっています。大きな見返りなんて期待していないけれど、「ありがとう」くらいは言ってもらえると思った……。そう思ってしまうのは、特に欲深いわけではなく、他人からの承認を求めて生きる人間本来の自然な欲求ともいえます。
とはいえ、「感謝されないならやりたくない」という考え方、受け止め方が根付いてしまうと結局、見返りが動機となり、陰徳を行えなくなります。
重要なのは、人から感謝されなかったときにどう感じ、どう振る舞うかです。「ありがとう」と言ってくれなかった相手を責めるのではなく、自分はなぜその行いをやろうと思ったのか、自分の中の動機を振り返ってみましょう。もともとは感謝を期待してやったわけではないはずです。自分自身が大切にしたい生き方として、あるいは自分の心が豊かになるために陰徳を行おうと思っていた。そのことを思い出し、受け止め方を変えてみるのです。
人は誰でも「幸せを感じる能力」を持っています。同時に、不幸や不足を感じる心も持ち合わせています。幸せを感じる能力を上手に使う努力や、それを伸ばす努力をしないまま、「もっと感謝されるべきなのに足りない」「ありがとうの言葉がもっと言ってほしい」と人に求め続けていると、いつしか心全体が、不幸や不足を感じる心に支配されてしまいます。
そうならないためには「自分が人に何をしてあげたか」ということばかり数えるのではなく、「人から自分は何をしてもらっているか」を意識して数えてみましょう。
思った以上に、私たちは周りの人から助けられ、支えられ、また見えないところで願い、祈られているものです。日常を丁寧に振り返ってみましょう。つい当たり前と見過ごしていた日々の生活の中に、「誰かのお陰」がたくさんあることに気づけるかどうか。目に見えない誰かのお陰に気づき、感謝する習慣が、人間本来の「幸せを感じる能力」を高めることにつながります。

まとめ

改めて考えてみましょう。「陰徳」は本当に時代遅れな考え方でしょうか。
マインドフルネスやウェルビーイングが注目され、「心の健康」や「精神的幸福」の大切さに関心が集まる今、「陰徳」の考え方には、現代を生きる私たちが心豊かに人生を生き抜くヒントが詰まっています。
日常の暮らしやふだんの仕事の中に、どう「陰徳」を取り入れ、生かしていけるか。少し意識を変えてみる、自分のために使っていた時間の割合をちょっと変えてみるなど、できることから、小さなチャレンジから取り組んでみませんか。それが「生きがい」「働きがい」に満ちた人生への価値あるステップとなってゆくのです。

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