2020年08月07日
松崎裕人さん(33)は大学卒業後すぐに、北関東を中心に各種外食事業をチェーン展開するA社に入社。今年で10年目を迎えました。現在は茨城県南部エリアの直営店を指導するスーパーバイザーを任されています。
担当は焼肉業態の5店。20代後半の直営店長のコンサルタント役として、店舗運営全般をサポートしています。学生時代にアメフト部の部長をしていた松崎さんは、面倒見のよさから各店の店長をはじめ、現場のアルバイトの人望も厚く、受け持ち店舗の活性化に成功していました。店長の人づくりから、5店の収益バランス、顧客ニーズを読んだマーケティング企画の実施等々、まるで自分が経営者になったような責任ある職務に強い充実感を得ていました。
そんなある日。松崎さんは埼玉の本社に呼ばれ、来春同社が新設する、惣菜製造販売の関連会社社長へ就任する打診を受けます。同期入社では異例の出世であり、松崎さんの実績と手腕を見込んでの大抜擢。突然の話に戸惑いはしたものの、経営者という役割に関心を抱き始めていたこともあり「はい、やります!」とその場で即答しました。
これから自分も小さいながら一国の城主になれると思うと足取りも弾みます。一方、関連会社とはいえ、資金繰りから経営判断もすべて自分の責任。資本金の4割を本社が出資し、残りは松崎さんの個人資産です。幸い両親も「松崎家から社長が出た」と喜んで背中を押してくれ、松崎さんはすでにオフィスのレイアウトに夢中です。
起業に挑む人の数は着実に増えています。ただし倒産のリスクは常にあるわけで、決して安き道でありません。脱サラの場合、経営者の仕事を、勤め人時代の業務の延長と甘く見てしまい、現実の厳しさに「こんなはずでは……」と脱落するケースが多くあります。どうすれば独立後、事業をうまく軌道に乗せられるでしょうか。
2社の起業経験を持つ㈱メディアジャパンの山下邦康さんは「創業期は足もとを固める時」であり、「『自分の目が黒いうちに大きくしよう』などと思い詰めずに、そこそこの欲に止めておいたほうがよい」と忠告。あれもこれもの「幕の内弁当」より、ムダのない「日の丸弁当」に専念せよと教えています(参照/『道経塾』No.26 〈2003年8月発刊〉)。
孔子が『論語』で説いたのは「速やかなるを欲するなかれ、小利を見るなかれ」の2点。焦れば損じるし、小利に惑わされると大事業は完成しないということです。めざすべき将来像と経営目的をしっかりと描くことが肝要です。
八方手を尽くしても、思うように事が運ばない。経営を軌道に乗せるまでには当然、そんな苦境もあるでしょう。そこで最後まで持ちこたえる人と、早々に諦めて脱落してしまう人。両者を分けるのは、なぜ自分は事業をやるのかという確たる「目的」の有無です。
目的とは「目ざすべき的」。いわば精神をどこに向かわせるか、その帰着点です。目の前の山へなんのために登ろうとするのか。険しい山であるほど、自分の心を奮い立たせ続ける、力強い目的が必要です。
東証一部上場の外食事業大手、ワタミ㈱を創業した渡邉美樹会長は、小学生の時に父親の会社が清算。そこで描いた「将来、社長になる」との夢を実現し、25歳で起業を果たしました。数々の苦難に際して、渡邉会長を支えたのは「両親に受けた愛を社会に還元したい」との思いです。「人間誰しも自分がいちばん可愛い。しかし、自分への愛情をどれだけ制して社員やお客様、取引先様へ向けられるかが、経営の鍵を握っているのである」。
あなたの事業意欲はどこに向かうものか。よいショットが打てても、めざすグリーンを誤っては意味がありません。正しい目的が経営に力を与えるのです。
小さくとも会社の社長へと立場が変われば、「リーダーシップの発揮の仕方」も変える必要があります。
かつて孟子は、ある国の名宰相が河を渡る人々を自分の乗り物で渡した行為を、「橋を架けるなり人や車が通れるようにすることが、為政者のなすべきことであって、一人ずつ渡すなど愚の骨頂」と批判しました。現場の切り盛り役である店長に対し、社長は組織全体の舵取り役。社員が安心して能力を発揮できる環境を、物心両面から実現することが、会社トップの大きな役割です。
松下幸之助は、社長は従業員数分の心配を背負う「心配役」たれ、と述べています。「そのために死んでも、それは早く言えば名誉の戦死ではないか、そう考えるところに社長としての生きがいも生まれてきます」。
ある自動車ディーラーのA社長の社長室の壁にはカーテンがはってあり、その陰には同社150余名のセールスマンの顔写真と名前が掲示されていたそうです。雨の日にはそこへ「ほんとうにご苦労さん」と声をかけ、早く帰る時には「お先に」と黙礼する。社員の身の上にも人一倍精通し、気配りをかかさなかったA社長。社業の盛況ぶりは言うまでもありません。
日本のゴムホースのトップメーカー・㈱十川ゴム(大阪市)の創業者で、モラロジー経営の実践者として知られる十川栄氏にこんな話が残っています。
青年時代、十川氏はゴム製品販売店に勤めていましたが、6年目に倒産、主人は家財道具を差し押さえられます。同僚は前兆を察して、すでに大半が退職。一方、十川氏は「仕事を教えていただき、お世話になった主人を見捨てられない」と残った上、貯めた貯金で、主人一家の生活必需品を買い戻します。その後、主人と相談の上、24歳で独立。すると不景気にもかかわらず、十川氏の人柄を見込み、お金や原料の提供を申し出る人が何人も現れ、事業は順調に発展した――。
学ぶべきは「恩人を大切にする」ことです。「恩」という字は「因」と「心」からなり、いわば「自分が今あることの原因」。独立に際して物心から支援をしてくれた方々。前の勤め先で自分を育ててくれた社長や上司。支えられて今があることを自覚できる人は謙虚になれ、自己の力を過信することもなく、社会から「信用」を得ます。それが時には危機に際しての安全弁ともなるのです。恩人によい報告ができるように――。その心がけで日々の経営にあたることが大切です。
(『道経塾』No.56 〈2008年9月発刊〉より)
『モラルBIZ』
創刊50年の看板雑誌『ニューモラル』の姉妹誌としてその持ち味を生かしつつ、「職場のモラル」や「働くことの意味」等、従業員などの“働く人”を対象としたテーマに特化し、社内研修会等でご活用いただけるよう、誌面に工夫を加えています。
『モラルBIZプレミア』
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