2019年08月02日
子育て中は、ときにいらだちさえ感じることもあるでしょう。親が自分を見失わずに子供と向き合うには?
子供が誕生するとき、「無事に生まれてほしい」と、ただそれだけを祈ります。元気な声で泣くわが子を胸に抱くと、わが子が生きているだけで感謝と喜びに満ちた気持ちになるでしょう。
子供は成長して、言葉を覚え、自我が芽生えてさまざまなことに興味を持ち、いろいろと行動し始めます。すると、親の気持ちは少しずつ変わっていきます。
最初のうちは、それもかわいさのうちと済ませることができますが、やがて「手のかかる子だ」「子育ては面倒くさい」というような感情が、親の心に芽生えてくるものです。
幼児期の子供と向き合うことは、思いのほかエネルギーを必要とします。
親は、自分の心をよく見つめ、感情を上手にコントロールしながら、子供と向き合っていかないと、ときに自分を見失ってしまうことがあります。
ある日、博さん、美里さん一家は水族館に出かけました。
勇介くん(5歳)と俊くん(3歳)は、珍しい魚を見て大はしゃぎです。
美里さんは帰りがけに、魚の形をした風船を買ってやりました。2人は、うれしそうに風船の糸を握りながら、車に乗り込みました。
車が走り出してから数分後のことです。勇介くんと俊くんが、お互いの風船をぶつけ合って遊び始めました。ところがそのうち、
「ママ、ぼくと俊ちゃんの風船のひもがぐちゃぐちゃになっちゃったよ」
と、さわぎ始めました。
「もう、しようがないわね」
美里さんは、絡まった2つの風船の糸を少しずつほぐし始めました。
ところが、ほぐしている途中、勇介くんの風船の糸が切れてしまい、風船は車の窓から外に出て、空高く飛んでいってしまいました。美里さんは、車の窓を開けていたことを、すっかり忘れていたのです。
「あーっ、ぼくの風船! ……ママのバカ! ママのせいだ!」
勇介くんは、声を張り上げて泣き出しました。
「勇介、ごめんな」
運転中の博さんが、思わず勇介くんに声をかけましたが、泣き声は大きくなるばかりです。
「ママも、ごめんなさいは?」
弟の俊くんが美里さんに言いました。
「そうだよな。ママも謝らなきゃいけないよな」
博さんまでも美里さんを責めています。
「どうしてママだけが悪いのよ! 勇介たちが風船の糸を絡めてしまうからいけないんでしょう! 何よ、風船くらいで。我慢しなさい!」
美里さんは結局、謝らないで一方的に勇介くんを説き伏せてしまいました。
いつしか、勇介くんは泣き疲れ、やがて2人とも眠ってしまいました。
「どうしてあなたは、いつも子供たちの前でいい格好をするのよ」
「君は、どうして子供に『ごめん』くらい言えないんだい? いつも子供たちが悪いことをしたら『謝りなさい』って言っているだろう」
「あたりまえでしょう。いつも悪いのは子供たちなのよ。ふだんの私の苦労も知らないで、子供たちの味方ばかりするあなたなんか大嫌いよ」
美里さんは、このときとばかり、思っていたことを口走ってしまいました。
「どういうことだい? ぼくはいつも公平に考えて、どちらが悪いかを言っているだろう!」
それから家に帰り着くまで、博さんはひと言も口をききませんでした。
翌朝、美里さんが「行ってらっしゃい」と声をかけても、博さんは無視をして出ていきました。
美里さんにとっては、気のめいるような1日のスタートでした。
勇介くんを幼稚園に送り出した美里さんは、俊くんと近くの公園に立ち寄りました。
いつもは朝食の片づけや洗濯物があって、寄り道せずに家に戻る美里さんでしたが、家に帰りたくない気分だったのです。
すると、俊くんと同い年の孝くんがやってきて、いっしょに遊び始めました。気がつくと、孝くんのお母さんが美里さんの近くまで来ていました。
ふと見ると、孝くんのお母さんは1冊の本を持っていました。美里さんは、その本を見せてもらい、何気なく開いてみました。すると、目にとまったページがありました。
いたそうね
ぼくが くりのいがいがを
手でもったら とても
いたかったよって
ママに話したら
ママが
いたそうねって
顔をしかめた
ママってかわいそうだね
おはなしをきいただけで
いたくなるなんて
(川崎洋編『おひさまのかけら』中央公論新社)
美里さんは、その本を借りて帰ると、家事の合間に読んでみました。
その本には、子供の「心の声」がいくつも綴られていました。日頃、親が子供に話しかける何気ない言葉や表情などから、子供は親の思いや自分に向けられた親の気持ちというものを、敏感に感じとっているのです。
“着替えが遅い勇介――。叱られてばかりで、どう感じているんだろう”
“風船を飛ばしてしまったとき、どんな気持ちで泣いていたんだろう”
勇介くんの悲しみや不安に共感する気持ちが、美里さんの心に湧いてきました。その心は俊くん、博さんへも広がっていきました。
昼食を済ませると、俊くんは昼寝を始めました。美里さんにとっては、この時間が、1日で唯一の自分だけの時間でした。
郵便物に目を通し始めると、親友の優子さんから手紙が届いていました。
優子さんのご主人は、古くから豆の加工品を製造・販売する老舗の長男です。優子さん自身も結婚してすぐに店に出て働き始めました。
そうした中でも、仕事の大変さや子育ての悩みなどを、文通していたのです。
手紙を読んで、美里さんは胸を締めつけられるような思いがしました。
――5歳の娘は、月に2回は熱を出し、そのつど保育園を1週間休みます。そのたびに私も仕事を休まなければなりません。
そんなはらはらした生活の中、今月に入って2回目の熱が出ました。体温計を見るなり、私は「やっぱりまたお熱!」と叫んでしまいました。
“また仕事を休まなきゃ”という思いが先に立ち、娘のことは考えずに何気なく口から出た言葉でした。
すると、しばらく私の顔を見ていた娘がつぶやきました。
「お母さん、またお熱でごめんね」
私は、ハッとわれに返ったように思いました。胸がどきどきして涙が止まりませんでした。
今まで、熱のたびに娘に辛くあたっていた自分を情けなく思いました。ずっと耐えていた娘に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
病気の娘を守ってあげられるのは母である私だけです。自分の都合ばかり考えていたことを詫びながら、娘をぎゅっと抱きしめました――
美里さんは、優子さんが仕事を持ちながら、子育てに懸命になっている姿を思い浮かべ、胸が熱くなりました。
幼稚園から帰った勇介くんを、美里さんは、思いきり抱きしめてやりました。
「勇介、昨日は大事な風船を飛ばしてしまってごめんね。悲しかったでしょう」
そんな美里さんの言葉に、こくりとうなずいただけで、にこにこと笑っている勇介君でした。
その日の夜、博さんは、遅くに帰ってきました。家に帰りづらく、同僚と飲んで帰ってきたのでした。
美里さんは、博さんの好きなお酒と肴をつくって待っていました。
「寒かったでしょう。お酒、あたためるわね。それともお風呂にする?」
それを聞いて、博さんはほぐれた表情を浮かべ、
「そうだね、せっかくだから少し飲み直しといくか」
と言って、いつものように穏やかに美里さんの話を聞いてくれました。
翌朝、幼稚園に行く時間になっても、勇介くんはおもちゃで遊んでいます。いつもなら、イライラして叱りつける美里さんですが、勇介くんの前にかがみ込むと、目と目を合わせながら言いました。
「ねえ勇介、早く着替えて、ママをびっくりさせてよ!」
それを聞いた勇介くんは、遊んでいたおもちゃを片づけると、うれしそうに着替えを始めたのでした。
(『ニューモラル』413号より)
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